5、現在?

「恵実?」
 上からの声に、我に返る。思わず息を飲む。胸が、まるで氷を飲み込んだ時のようにキリッと痛んだ。
 そして見上げると、幸ちゃんの不思議そうな顔。
 しかし、あたしの体は元に戻らなかった。飲み込んだ冷たい固まりは、彼の温もりでも溶けてはくれない。こんなに温かい、彼の視線にも。
 あたしの表情が強張ったまま戻らないことに、彼は当然の如く違和感を覚えたらしい。しばらくあたしの変化を待つように黙っていたが、やがて僅かに顔を近付けてあたしに呼びかけた。
「・・・? おい?」
 現実。
 これが現実。
「・・・」
 幸ちゃん。そう言ったつもりだったのに、唇は僅かに震えただけで、息すらそこから漏れてくることはなかった。
 言い聞かせて理解する。大丈夫。何も起こっていない。現実。
 けれど引き戻された、この現実は。
「どうした?」
 あまりに静かで。だから余計に、刺激があって。
 ううん。何でもない。
 雨の音だけが、あって。怖いくらいに、恐怖を煽って。
 ごめ、ん。大丈夫。そう言いたかったのに。
 耳の奥には、音が残ってる。訳も分からず、鳥肌が立つほどに恐ろしい音。
 しとしとしと。その穏やかな音は、痛みを覚える程に耳を突っつく。
「恵実?」
 幸ちゃん。心の中で、彼を呼ぶ。けれど何も変わってはくれない。呟き覗き込む彼の目に不安を覚えたのは、生まれて初めてだった。まるで呼んだら、それをきっかけにきえてしまいそうな・・・。
 初めてだった。彼を見ている時に、こんな気持ちになることなんて、かつて一度もなかった。彼だから感じたとも言える、この負の感情。
 幸ちゃんの顔を見ていると・・・。
 溶けきらない冷たい氷は、やがて重く、あたしの中を支配した。さっきのような鋭い痛みではなく、傷付けられた場所が慢性的に痛んでいるような。 
 幸ちゃんの名前を呼べば呼ぶ度。
 怖くて口に出せなくて、心の中で呼べば呼ぶ程。
 ざわざわ。と、不安が体に響く。
 ざわざわざわざわ・・・。
「・・・こ、幸ちゃん」
 気が付くと、あたしはこう言っていた。その声で、目が覚める。
 そして自分が立っているのを、この時やっと実感した。自分の体の重みが、力を入れれば固くなる筋肉が、あたしの意識を一生懸命繋ぎ止めている。彼を思う気持ちと、自分の中に宿る意識を逃がさないように、必死に閉じこめながら。
「一緒の傘に入れて」
「え?」
 幸ちゃんは一本しか傘がない時、いつだってあたしを庇って肩を濡らしてた。最近は無いけど中学の時よく、傘を忘れたあたしを見付け「世話が焼けるなぁ」って言いながら隣にやってきて、あたしを入れてくれた幸ちゃん。まるで、あたしだけを入れてくれていたような幸ちゃん。風邪引いちゃうって、いつも心配していたのは他でもないあたしなのに。
 でも、お願い。離れないで。今日だけは。今日だけは・・・。
 お願いだから。
「な、何だよ。いきなり」
 そう、驚いたように呟いた幸ちゃんの声にも、あたしの不安は止まなかった。戻りきれない日常。まるで、目が覚めない。正常な感覚が戻らない。どうしたんだろう。この止まらない、ざわつきは。
 側にいたい。ううん。
「たまには、ね? いいじゃん。そんなに今、大降りじゃないし」
 そう言って、久しく触れることのなかった幸ちゃんの腕にしがみつく。触れてなきゃ、不安でしょうがない。その熱と感触を確かめていなきゃ、一秒後には不安で崩れてしまいそうだった。
「え? おい?」
 けれど、それを払おうとはしない幸ちゃんの声。頭の上に降ってきた、愛おしい声。
 ざわっ。
 暖かい。しかし彼に触れて、それを失う不安が確かにあたしの中に響く。
「恵実?」
 それは最大値。つまり、あたしに最悪の予感をさせた。この手が、この温もりが、消えてしまう予感。寝る直前に怖い記憶がどこからかやってきて、最悪の展開になってしまうのを想像しているときに似ている。どうして、こんな時に。どうして、こんな事を思ってしまうのか。ベッドの中にいる時も今も、あたしには自分が理解できない。
 出来ない。けれどこの悪寒は、想像だけの産物じゃない。体を起こせば無くなる物じゃない。大丈夫と言い聞かせても収まらない、この不安は。
 どうして。
 ざわ・・・っ。
 鳥肌が立つのと同時に一瞬触覚が鈍くなり、彼の熱が遠ざかった気がした。慌てて顔を上げると、幸ちゃんの不思議そうな視線と目が合う。
 そんなの、やだ。守らなきゃ。分からないけれど、何が起こるのか分からないけど。
 幸ちゃんを守らなきゃ。
「今日、荷物が重いから」
 必死に笑顔を作り、そう言って、あたしは肩に掛けていた鞄を見せる。いつもと変わらない学制鞄。
「幸ちゃんが傘差しててくれたら助かるなぁー。なんちゃって」 
「・・・ったく・・・」
 けれどこんな小さくて明らかな誤差を、幸ちゃんは何も言わずに受け止めてくれた。それを聞いた途端。
 どこか心配そうだった幸ちゃんの顔は、呆れ顔になった。そしてあたしの笑顔に、安心したようなため息を付いて言う。
「せっかく傘持ってきたのに」
「まあまあ、そう言わずに」
 まるで自動的に、受け取った傘を幸ちゃんに差し出すと、幸ちゃんも自動的にそれを受け取って、自分の傘の雨を振って払ってから、それを開いた。空を見上げる、彼の横顔。その自然なほどの、やりとりに。
 隠された大きな優しさに、今は泣きそうになるあたしの不安。いやだ。やだ、やだ。こんなの。
 やだ。幸ちゃん・・・っ。
「わーい」
 全てを振り払い、幸ちゃんの左腕に再びしがみつく。少しも離れたくなくて、自分と幸ちゃんを誤魔化しながらしがみつく。ガタガタと震えそうになる肩を、ギュッと腕に力を入れて堪える。小さく小さく縮こまったあたしは、こんなに大きな幸ちゃんを守れるのだろうか?
「馬鹿。そんなことしたらお前、傘が右側に来るぞ。お前だけ濡れるぞ」
「全然オッケー!」
「・・・風邪引いても知らないからな」
 ちょっと顔を顰めたくせに、さして文句も言わず、最後の捨て台詞だけを残して幸ちゃんは歩き始めた。


 小降りだった雨は、すぐに音を増したように思う。幸ちゃんの傘を叩く、雨の音。やけに耳に響いた。ぱちぱちぱち。と、火花のように響くそれは、あたしの不安を更に呼び覚ます。
 暗闇に、二人。歩き出す。小さな雨音と共に。
「お前、さぁー・・・」
 駅を出てすぐ、幸ちゃんは音を鳴らし続ける傘を見上げてからそう言って、あたしの方を見た。駅から零れた弱々しい光が、あたし達と雨を、背後から僅かに照らしていた。
「やっぱり傘差した方が良くない? 絶対濡れるぞ」
「やだ」
 ブンブン首を振って、あたしはキッパリ拒否をした。そして幸ちゃんの腕をギュッと抱きしめる。ざわざわざわ。不安はどこまでもどこまでも大きくなり、あたしは最早、言い訳をする余裕すら失っていた。顔を見たら不安でどうにかなってしまいそうで、しがみつく彼の腕にだけ、集中する。力を込めたその腕を。
 けれど、それは幸ちゃんにとって、ただの我が儘にしか映らなかったらしい。
「・・・変なヤツ」
 ため息混じりにそう言って、幸ちゃんはそれ以後、何も言わなかった。




 戻る 目次 次へ

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。